ハリー・ラングドン

オリジナル曲を作っていながら、たまにコピー曲がやりたくなります。
それは、自分の曲には無いものを他人の曲が持っているからでしょうね。


もちろん、自分の曲には自分の色があるのだけど、だからこそ、自分の曲に無いものを他人の曲が持っていたりするのです(あっ、でもね、
バッハみたいな曲は、意外に作れます。ヤン・ティルセンみたいな曲も作れる。同じ流儀だから(笑)むしろアーント・ヘイガース・ブルースみたいな曲が、私はなかなか作れない)


まぁ、こればかりは仕方がないのです。
人は他人の持っているものを欲しがるようにできているのだからね。


そんな事を考えていると、私はある人物を思い出すのです。


チャップリンを超える売れっ子喜劇役者でありながら、チャップリンの世界に、自分の持っていないものを見つけ、どうしてもそれを欲しようとした為に、自分を見失い没落していった道化師ハリー・ラングドン


そう。彼。


そもそも、バスター・キートンも、
ハロルド・ロイドも、
チャーリー・チャップリンも、
ハリー・ラングドンも、
同じ喜劇役者でも、道化の性質はみんな違う。


だからこそ、彼等は、物真似じゃなくて、四大喜劇役者と呼ばれていたのです。


だけど、チャップリンの作品は、あの時代にしては、特殊性が目立つ作品の作り方をしていたのですね。
動いている機関車の上を走ったり、ビルからぶら下がったりして、体を張った笑いをとるキートンや、ハロルドと違って、喜劇に、悲しみと、哲学を混ぜたからです。


なるほど、そういった物は確かに新しいし、現代的。
賛美されやすい。


でも、だからと言って、その他の古典的な笑いが、チャップリンの作品に比べて劣るとか、そういうものではないと思うのです。
ただ、多くの人に賛美されやすいというだけの事。
そして芸術とは、「賛美の数」が全てではないのです。

それはシェイクスピアも同じで、天才というよりは、たまたま時代の人々に受けやすい流儀だったというだけの事。
あはは。
だって、チャップリンだって、無声映画の時代の終わりと共に、最後には忘れ去られてしまうのだから。


だけれど、天才は時として、そういったものに振り回される。


ハリー・ラングドンは、チャップリンに憧れるあまり、チャップリンを意識するあまり、自分の良さを見失い、チャップリンの真似をして、結果、みるみる人気が下がり、舞台から消えていきます。


賛美の数や、売れ行きは、資本主義の世の中な以上、確かに避けて通れない道なのだけど、そもそも芸術とは、そういった時代の風潮のようなものの為に作られるようではおしまいなのです。


デスノート」が流行したからって、「デスノート」を描こうとするようでは、駄目なのです(笑)


だから、他者に憧れる時は、ほどほどにした方がいいよ。
憧れの中に、ちょっぴり、生意気な反抗心を持っている位が芸術家には丁度いいと思う。


それでも、人は惑わされる。
他人の光に、蛾のように吸い寄せられてしまう。
見失ってしまう。


自分もまた光っているのにね。


大丈夫なのにね。
みんな光っているのだから。


人生とは、ただひたすら自分の光の輝きを見つけ出し、追求していく事に価値がある。


マスコミや、評論家は、さも、特別な人にだけ、特別な光があるように言うけれど、それは、ああ、そうした方が生ビールが売れるんだね、位に思っていた方がいいです(笑)




さねよしいさ子も言っている。


「きれいな色水の中に入りたいなと
思ったんだ子供の頃。


大きくなったら何になりたい?
と聞かれたら
そりゃあいろいろあったけど
よく考えてみると、
何になるにしても、
とにかく何かうっとりするような素敵なものに
包まれたかったんだ。
ぶどうジュースの中にいるような、
夢の心地。
光の中にいるような
幸福の気持ち。


ところで私のコンサートの照明、
とってもきれいなんだってさ、
私は見れないけどね。」