戯曲を執筆中です

「ボティーガス墓地の一夜  〜屍を漁る類の魔女の話〜」


スペインを舞台にした、詐欺師と、魔女と、神と、悪党の道化劇です。
現在、執筆中で、まだ未完成ですが、よーやく三幕にまで突入。
以下、各場面より、セリフを何点か紹介します。





●第三幕・一部
おいぼれ魔女・馬の骨の登場シーンより


===魔女・馬の骨===
ああ、才気も、叡智も、
全ては若い体を持っていた時代にこそ価値があったのだ。
今の私はただの老いぼれか?
輝かんばかりに美しく、気高い花は、摘まれる事を恐れるが、
それは若いうちの驕りというもんだろう。
最もこの世で恐ろしい事は、
誰にも知られずに美しさを失い、朽ちていく事だ。
讃えられるべき才を讃えられずに、
人知れずに消えていく事ほど、残酷な事はあるまい。
だが考えてみれば、それは誰にでも訪れる終焉ではないのか?
国中で讃えられた英雄や、乙女達の結末はどうだ?
彼らは賛美の言葉に驕り、偽り、飾り、
己の最高の青春時代が永遠に続くと錯覚するが、
その何十年後、
朽ちたあばら屋の隅に敷かれた小汚いベットで、
息を引き取る事になるのだ。
時とはそういうものだ。
だから、多くの女が神の祝福を捨て、魔女になるのではないか?
永遠の若さを追い求める為に。
なぜって、女は、自分に注がれる愛情が
永遠ではない事に逸早く気づく生き物だからね。


●第三幕・一部
エスと詐欺師カンパニージャの会話より


===イエス・キリスト===
この世のほとんどの場所は、人々の生きる活気で賑わい、
文明の知恵で栄え、神の恵みにより男も女も潤っちゃいるがね、
どんなに箱庭を整えてみた所で、
澱みのような場所は必ずできるものなのだよ。
どんなに美しい花園にだって、日陰があるように。
ムカデやゴミムシが這い回る哀れな場所があるのだ。
だが、それはそれで、そういった場所を必要とする者もいて、
それならそれでいいものなのだ。


●第三幕・一部
若き魔女・罪悪の蛾と詐欺師カンパニージャの会話より


===魔女・罪悪の蛾===
でもね、旦那。
哲学っちゅうのは、生きている者が
墓に入るまでに退屈した時に嗜むものです。
勘違いされやすいのは、それが何の道標にもならない物なのに、
まるで正しい道を示してくれる教科書みたいなもんだと
思われている事ですね。
だって、結局の所、人生というのは、
退屈しようが、しまいが、
道に迷おうが、信仰を貫こうが、
辿り着く場所は同じなんだから。


===カンパニージャ・デ・ウトレーラ===
何処だと言うんだ!?


===魔女・罪悪の蛾===
墓の中ですよ。


===カンパニージャ・デ・ウトレーラ===
なるほど。


●第三幕・第一部
若き魔女・罪悪の蛾と詐欺師カンパニージャの会話より


===魔女・罪悪の蛾===
時代、時代って、社会主義者みたいにさ、
若い連中は何でもかんでも
その二文字の魔法で片付けようとしますけどね。
いくら馬車が車に変わった所で、
それに乗り込む人間は同じなんだから、
そしたら、やっぱり喜びとか、恨みとか、
そういったものは、ティベリウスの時代から変わらないわけですよ。
毒を飲みゃ、死ぬって人間の側には、
必ず毒を盛る女がいるって事も、
そういう意味で変わらないわけです。


●第三幕・第二部
エスと詐欺師カンパニージャの会話より


===イエス・キリスト===
もちろん、君に何の落ち度があったか、
無かったかは知らないがね。
人生とは落ち度が無くても、
こういう場面に何度か出くわす事があるって事を覚えておくんだ。
そういった時にこそ、
戦士なら資質だとか、百姓なら信仰だとか、
こそ泥なら度胸だとか、あるいは魔女なら魔力だとかが問われるのだ。
理不尽に見えるときこそ、道理を貫く馬力が必要なのだ。


完成を目指して頑張ります♪

今日のスペイン語 意味 説明
アンギラ・デ・マル アナゴ 直訳すると海のウナギですね